キューバ見聞録

2003年7月26日〜8月3日 飛騨五郎
 
成田―ヒューストン―カンクン―ハバナ(3泊)―シンフィエゴス―トリニダ(1泊)―バラデロ(1泊)―ハバナ(1泊)―カンクン(1泊)―ヒューストン―成田

〔1〕
  わずか7泊9日の旅であったが、宿泊は、かつての三里塚の闘士、現在は三里塚物産の代表取締役 佐山忠氏とずっと同室であった。夜 毎、キューバの各地で氏と交わした対話は稔り多いものだったことをまず記しておく。佐山さんはご自身有機農業の長年の実践者である が、このところ頻繁に伝わってくるキューバの有機農業の瞠目すべき成果に関して、半信半疑ながら大きな好奇心を持たれていた。この点 自分と関心が重なっていたことは幸運であった。
 
 まずはこの旅行で、自分の一番印象に残っていることから書いていこう。キューバでの最終日、革命前の金持ちの邸宅を改装した、ハバナ旧市街のほぼ中心に位置するホテル、オファーリの前から佐山さんとシクロ(自転車タクシー)に乗った。キューバの交通事情は極端に悪く、鉄道はあるが週に2〜3便、主としてシーズン中のサトウキビの運搬用である。そのため勤務は毎日8時間労働ではなく、一度職場に行ったら12時間働いて翌日は休むという形態が多くなっているようだ。街を走る自動車は、ありとあらゆる世界中のクラシックカーが走っている有様だ。50年代のアメリカ製が多いようだったが、とにかく、ほとんど同じ型の車を見かけない。箱型フォードで、ラジエーターの蓋がとれたのを目撃したときには感慨が深かった。日本製の旧式の軽トラックも様々なのが活躍していた。幹線道路は比較的整備されているのだが、世界文化遺産に指定されている旧市街(オールド・ハバナ)の道路は信じられないくらいデコボコである。しかし、シクロの屈強な運転手は、神業でそれらを回避しながら走ってくれた。ホテルのフロントで、庶民が集う市場はないかと尋ねるのだが表現力不足のためかうまく伝わらない。仕方なく、地図をもらって佐山さんとやみくもに歩いたのだが、それらしい場所には行き着かなかった。おかげで配給所や診療所には行き合って写真を撮る事はできたのだが。
 
 ホテルの前まで戻ってきた時、目の前でご婦人がシクロを乗り捨てたので、思い切って、近くにマーケットはないか運転手に尋ねてみた。彼は全く英語を解さなかったが、ご婦人が通訳してくれ、3ドルということになり乗ったのだった。先に書いたように、感嘆すべきハンドルさばきで穴ぼこ道路を彼は走った。後ろに二人載せているのだから、かなり重いだろうと思われるだが、すれ違う仲間に笑顔で挨拶したり、前を行く通行人に陽気に警笛を鳴らしてどいてもらったりと苦にした様子はない。シクロの上から、パン屋や散髪屋も見つけた。
 
 マーケットは活気に溢れていた。生活臭を無遠慮に発散させる老若男女でごった返していた。L字型の路地全体の両側に、ずらっとすき 間なく縁日の屋台のように様々な店が開いていた。野菜は1個4USドルという驚くほど高値の小さなキャベツが見かけられたほかには、瓜に近いような太いきゅうり、青いトマトがあっただけで貧弱であったが、果物と豆、芋の類は豊富であった。特に豆類は驚くほど多種多様であった。真中の角のところには役所の出張所のようなコ−ナーがあったが、後で聞いたところによると、そこでは、取引に不信のある者が、訴えたり、重量をチェックしてもらったりできるのだそうな。佐山さんは中国や東南アジア方面への旅行経験が豊富らしく、一番喜ばれるのだということで、ポラロイドカメラを持参していた。確かにその威力は絶大で、写真は撮られ慣れているのか、さして愛嬌を示すこともない人々も、ポラロイドだということが解った途端にどよめいた。撮られるばかりで、写されたものをもらう機会は皆無に近いのだろう。1枚試した後は大変であった。あちこちの店で撮ってくれとせがまれた。しかし、旅行の最終日に近く、ほとんどフィルムが残っていなかったのを佐山さんは残念がった。
 
 シクロの若い大男は、我々が喜んで自転車のところまでもどってきたのを見て、微笑んだ。運転もそうだが、じつに真面目で誠意に溢れた人柄であった。身振り、手振りで、もう一ヶ所このようなマーケットに連れて行って欲しいと頼むと、少し遠いというようなことを言っていたが承知してくれた。彼は再び自信に満ちた運転を始めた。知り合いに出くわすたびにアミーゴと陽気に声をかけながら進んだ。
 
 今度のところは、もっと大掛かりな市場で、足場はコンクリートの台座で、道路から何段か階段をのぼるのであるが、上はちゃんとスレートの屋根でくまなく覆われており、隣接する建物の中にはかなり広い食肉のコーナーもあった。ここにもちゃんと役所のコーナーがあった。肉を買う人々の多くが重さをチェックしてもらっていた。牛肉は固くてまずかったが、キューバ滞在中あちこちで食べた鶏肉も豚肉もうまかった。しかし牛肉だけは別のところで、米ドルでないと売ってくれないのだとガイドに教わっていた。道路に面して花屋もいくつか出ていた。自転車のところまで戻ると、運転手がちょっと待っていてくれと身振りしながら言い置いて、しばらく姿を消した。どうしたのかと待っていると、英語のできるご婦人を連れてきて、3ドルと約束したが、2箇所まわったし、こんなに遠くまで来るとは思わなかった、6ドルに値上げしてくれないかと通訳させた。かれは、真剣な面持ちであるが、じつに誠実な態度だった。ご婦人が心配そうに、ノープロブレム?と繰り返すので、OK、OKと大きく頷いた。彼の顔が輝いたので、佐山さんもぼくも嬉しかった。

〔2〕
 次に印象に残ったのは、エリート層ではないインテリたちの閉塞感であった。キューバ滞在中ずっとガイドと通訳を勤めてくれたホセは、大学で日本語を専攻し、7ヶ月間日本に留学したこともある若い優秀なガイドであったが、もう二度と日本には行けないだろうという見通しを肩を落として語った。
 
 91年のソ連崩壊前後より始まった「非常時」を、93年から著しく深刻さを増した経済危機を背景に、キューバはついに革命以来の輝ける平等主義の原則を崩し、外貨所持を解禁、さらには117種に及ぶ職種の個人営業を許可する事態にいたったとはいえ、カストロ以下かって存在したいかなる共産党指導部よりも無私であり清廉であると言える指導部の粘り強い社会主義体制の継続によって、乗り切った。国民は極度の経済的困難に直面したが、また日常生活では大いに不満であったろうが、赤い貴族・ノーメンクラトゥーラが存在しない清廉なこの平等社会では、旧ソ連や東欧諸国に勃興したような党・政府指導層に対する妬みや怨念は生じなかったようだ。(この時期キューバ大使を勤めた宮本信生氏の著書『カストロ』参照)
 
 しかし、経済危機は去ったわけではない。93〜95年が経済のどん底期であったようで、砂糖の生産量は革命後最も低い数字を記録したし(94年度330万トン)、GDP(国内総生産)、貿易額ともに最も低調であったが、以降上昇曲線を描き出した。このように大きな山場は確かに乗り越えはしたが、危機以前の水準に回復したわけではない。こうした経済危機の長期化に伴い、現在のカストロ大統領のカリスマが徐々に低下していることは明らかなようである。肩を落として閉塞感を語ったホセのみならず、ハバナ郊外に訪問した日系人農家オリガ大江さんの農園で出会った、見るからに誠実な農業省の下級官吏エヒリオさんの言動からもそのことは感じられた。カストロの指導力や人格が問題なのではなかった。それはある意味で非の打ち所がない。しかし、頑なな米国の、何十年にもわたる執拗な経済封鎖政策はボディブローのように効いているのである。出口の見えない長期にわたる経済危機は、確実に若い層の活力と希望を奪っているのだ。

〔3〕
 3日目の夜、ハバナで滞在していたホテルで首都圏コープ事業連合主催の交流パーティなるものが催され、元在日キューバ大使のホセ・ゴレゴ氏やキューバ友好協会のアレシア・モラレス女史、在キューバ日本国大使館の一等書記等と歓談する機会があった。
 
 今回の旅行は、昨年(2002年5月)締結されたキューバ共和国外国投資・経済協力省と首都圏コープ事業連合会の協力協定を踏まえて企画された、相互交流を目的とするツアーの第2回目の試みであった。自分は傘下の生協の会員ではなかったが、今年発足した「キューバ友好・円卓会議」の準備会(本発足は9月27日予定)に縁あって参加していたおかげでこのツアーに参加できたのであった。
 
 同室の佐山さんは、このレセプションで披露すべく、水だけによる電力供給システムの簡易装置を持参しており、てぐすねをひいていた。ヒューストン経由で行っただけに、厳しい入国管理体制下にある合衆国の警戒網によくぞひっかからなかったと思うのだが、その装置は見つかったら必ずや没収されたであろうシロモノであった。(その場で実験させてくれたなら論より証拠、納得せざるを得ない装置であるが、燃料電池ではない、水だけで発電するシステムの説明など、入国管理官に対しては到底不可能であったろう。)佐山さんは万全を期して、なんとその装置を2セット用意してきていた。細心の準備は功を奏し、衆目の注視の中、1台目は起動しなかったが、2台目は見事作動し、招き猫は水だけで手招きを始めた。この企画は大成功で、関係者によって国立研究所へ持ち帰られた。佐山さんは、キューバ円卓会議により企画されている秋のツアーにも是非加わって再度訪問してくれるよう熱心な要請を受けた。
 
 日本の60年代を席巻した全共闘運動は、70年代に急速に終焉していったが、大衆から遊離していった過激派に同調することなく地道に活動を継続してきた人々はいたのだ。有機農業を実践してきた人々の運動はその有力な活動の一つである。今、この運動は米国モンサン ト社を代表とする多国籍バイオ企業が、グローバリズムの上潮にのって強引にすすめる、遺伝子組み替え種子を媒介とした世界の農業支配戦略に対抗すべく、各運動との連携を模索している。これらの有機農業者は、農業のみに関心を集中することなく、環境問題、エネルギー問題の研究にも熱心な人たちが多いが、佐山さんもその一人なのである。

〔4〕
 このツアーには当然ながら首都圏コープ事業連合会の関連企業から参加した人も多かった。その中の何人もの人から興味深いお話をうかがう事ができたが、特に今の自分に強い印象を与えたのは、福岡のNON GMO 菜種油専門メーカー、平田産業の平田社長のお話だった。品質の良い菜種を追求した結果、長い間カナダからそれを得ていたのであるが、5年前にGMO(遺伝子組み替え作物)が解禁になったことを知り、カナダから仕入れるのをやめたと言うのだ。取引先1000社にアンケートを取って決めたと教えてくださった。現在はオーストラリアから仕入れている。NO GMOが徹底されているのは、もうオーストラリアとフランスだけなのだそうだ。この6月から7月にかけて、カナダの菜種農家、パーシー・シュマイザーさんが来日して、全国各地で対モンサント社との訴訟について講演会を行なった。
 
 50年来菜種を作り続けて、地域に適合した耐病種の開発農家として有名であったシュマイザーさんのところに、ある日突然モンサントポリスが、特許料を払わないなら告訴すると脅しにきた。GM菜種作付けの解禁されたカナダにあっては、いつその種が飛んでくるかは予測不可能だ。また昆虫による花粉の交配を防ぐこともできない。どう割り引いて聞いても、モンサント社の横暴は明らかであるが、予審、第二審ともにモンサント社に有利な判決が出た。来年の1月に開廷されるという最高裁での審判を待つまでもなく、すでに見識のある業者は5年 も前からカナダの菜種を見捨てているのだ。被害者はモンサント社である筈もない。一旦、遺伝子組み替え作物の作付けを認めてしまったら、花粉の自然飛散や昆虫の受粉によって、GMO種の拡散は防ぎようがない。NON GMO種は失われてしまう。取り返しがつかないのだ。
 
 7月末に、水戸納豆で有名な茨城県で、モンサント社から種子、資材ならびに資金の提供を受けたバイオ作物懇話会(宮崎県)が谷和原(やわら)町の地主に委託して栽培中の大豆が、農民の再三の花粉の飛散防止措置の訴えを無視したあげく、近隣の老農夫によって耕運機により鋤き込まれるという事件が起きた。事業報告では、開花前に鋤き込むということであったようだ。開花を確認した、遺伝子組み替え作物いらないキャンペーンを推進する茨城ネットワークの人たち(農家と消費者より形成される)が、23日と25日に何らかの飛散防止措置を施すよう訴えたにもかかわらず、懇話会は何らの対応をも行なわなかったようだ。花粉の飛散防止措置をとることに関しては地主の同意を得ていたようであるから、老農夫が訴えられるようなことはないであろうが、彼の切羽詰った行為に比して、その後伝わってくる農水省の対応には、真摯さがあまり感じられない。
〔5〕
 ところで、キューバの有機農業の興隆に関しては次のような背景がある。ソ連崩壊以降、政府は砂糖による収入の大部分を、最優先で石油の輸入に当てねばならなくなり、国民の生活に必要な食料や日用品のみならず、農業生産に必要な化学肥料や農薬もほとんど輸入できなくなった。有機農業に転換せざるをえない状況に追い込まれていたのである。また、1993年に外貨所持の解禁とともに117種に及ぶ職種の個人営業が許可されたことはすでに書いたが、その中には家庭菜園の農産物の販売も含まれていた。同時に農地改革が行なわれ、国営農場が改編されて、独立採算制の協同組合基礎単位(農地の国からの永代貸与による)が創設された。さらに翌94年には、農産物自由市場の開設も許可され、農業従事者は、米と牛乳、そして牛肉やタバコ、コーヒー等を除いて余剰農産物を自由に販売できるようになった。
 
 協同社会研究会の資料によると、経済危機以前は、全農地の75%が国家所有の農地で、協同生産組合農場や生産農家組合が22%、個人農家が3%という状況であったが、93年の農地改革以降、国営農場の改編が進んだ結果、97年には国営農場は33%、UBPC(協同組合基礎単位)41.2%、CPA(農業生産組合=小農民が土地を持ち寄り共同耕作を行なう)9.2%、CCS(生産農家組合=信用・役務協同組合)11.7%と協同組合生産へ大きな変化をとげており、中でもCPA、CCSは生産力増大に関して、めざましい成績をあげているそうである。
 
 中南米諸国は、ソ連崩壊までは第三世界と呼ばれてきた。また、現在もそうであるが、発展途上国とも呼ばれている。しかし、新自由主義とも称されるグローバリズムの恐るべき破壊力に世界中がさらされている今日、いち早くその犠牲になった中南米諸国は、ある意味で「先を行っている」のではないか。逆説的ではあるが、いわゆるどの先進国も経済破綻から絶対免れているとは言えない以上、すでに破綻を経験した諸国は、すべての国の近未来の姿を映し出している、ともいるのである。農業にしても、大量の化学肥料や化学農薬をふんだんに使用する近代農法や、さらには遺伝子組み替え作物を使った農業支配戦略等が、新自由主義の極端な市場原理には適合しているのであろうが、人間の健康や環境の持続可能な開発に果たしてよいものであるのかどうか大いに疑問視されるところであるが、先にあげた事情から、キューバでは一足先に国家規模で脱化学肥料、化学農薬の農業実践に取り組んできており、先進国にはないノウハウも蓄積されているのではないだろうか。
 
 上記のような考えを持って、ハバナ滞在の3日目に、郊外の日系農家、オリガ大江さんの農場を訪問した。キューバには驚くほど日系人は少ない。1000人以内だろうという。日系一世であるオリガさんのお父さんは、ただ日本人とのみ名乗ってきたそうで、皆から日本人(エル・ハポネス)とのみ呼ばれていた。だからこの農園も「日本人の農園」という名だと言ってオリガさんは笑っおられた。ご主人のゼグンド氏と弟のロランド氏も経済危機を契機に帰農したそうである。農地は無料で貸与され、税金は、学校関係に納品販売した場合は売上の2.5%、一般関係なら5%とのことであった。オリガさんの農園では、収穫物は自由市場での販売はせず、市場の約3割引きで、幼稚園、小学校、外交官等に契約販売しているとこのと。  
 農法は、2年ごとに一夏土地を休ませる輪作制で、収穫後24時間以内に次の植付けをする集中農法を採用しているそうだ。ミミズを使った有機肥料の生産現場等見せていただいたが、抗殺菌や除草のための有機農剤は廉価で農業研究所から支給されているようだ。見本を見せてもらったが、日本の有機農家で開発・使用されているものと大して違いはないようだとの佐山さんの意見であった。今後、日本の有機農家との交流が計画されているようであるが、互いの経験に学ぶ事は多いのではないだろうか。

〔6〕
  キューバの農業関係に詳しい、東京都産業労働局農業水産部の吉田太郎氏によると、これまで、CPA(農業生産組合=小農民が土地を 持ち寄り共同耕作を行なう、国内割合:9.2%、)の生産力向上が注目されてきたが、CCS(生産農家組合=信用・役務協同組合、国 内割合:11.7%)はさらに生産力を上げているそうである。現在注視されているキューバの農業生産力の向上は、国営農場体制から協 同組合生産制への劇的な移行がその原因であろうと推測されるのだが、様々な協同組合の研究者として知られる石見尚氏らを団長とする、これらの農業生産協同組合の視察・交流を目的としたツアーが10月に予定されているようだ。
 
 帰国後のレポートが楽しみなのであるが、それは、どの社会主義体制にも見られたのであったが、特に農業分野に顕著に現れた、社会主義経済の構造的欠陥の打開策として興味があるのではない。先に触れた、逆説的「先進国」の現象として、グローバリズムの次に模索されるであろう、先進諸国の近未来のモデルを探求する手がかりになると考えられるからである。  
 バブル期は別であるが、日本の高度経済成長期には、これも逆説的ではあるが、〈能力に応じて働き、必要に応じて受け取る〉という、本来はコミュニズムの理念が、実質的に実現されていたのではないであろうか。終身雇用制のもと、人は能力に応じて働いていた、と自分は思う。また、給与も、総額に占める住宅手当や扶養手当等の割合が高く、限りなく、必要に応じて受け取る、という理念に近づいていたのではなかったろうか。
 
 現在、市場原理を極限まで適応し、利潤の極大化を最優先課題とし、〈能力に応じて支払う〉体制の徹底化が模索されているが、この理念がグローバル・スタンダードとして定着するならば、行き着くところは、高い失業率、大規模な環境破壊、増大する南北問題における破局等々ではないだろうか。
 
 前世紀においてその失敗が確認された、農地や企業の国営化を柱とする、国家社会主義の処方箋は、すでに様々な問題を引き起こしているがゆえに探求が急がれるグローバリズムの処方箋たり得ないことは明白である。行き過ぎた市場原理の徹底化に替り得るのは、現在のところ、自由な市場取引を前提としつつも、構成員の総合的な人間能力の向上と福利を最優先課題としうる、協同組合の理念なのではないだろうか。

 

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